【自己紹介●私のストーリー】
幼少期~中学時代●大家族の中で、内気な私
幼いころの一番古い記憶と言えば、3歳の夏、父の運転する自転車の後ろに乗って、母の入院しているクリニックに行くシーンです。兄妹の中で5番目の一番小さかった私に、6番目のもっと小さな妹が産まれた日でした。
私の上には年の離れた二人の姉、その間には兄が二人いました。今では笑い話ですが、すぐ上の兄には包丁を持って追いかけられたこともあります。泣き叫びながらトイレに逃げ込む私を見て、みんな笑い転げていたのが記憶の片隅に残っています。厳しい父に対しても恐怖心が強く、妹と母以外とはあまり心を開いて話しませんでした。
物心ついた時から、内気な私は、死後の世界に思いをはせるのが日常的なものになっていました。ネガティブな意味ではなく、きっと死後の世界は良いところなのだと考えていたのです。空想好きで、言葉を発するよりも、描いたり作ったりするのが好きな子どもでした。
小学校や中学校の頃は、これといって何の問題もなく過ごして(いるように見えていたと思います)いましたが、卒業文集には「早く死にたい」と書いた記憶があります。反抗期はあまりなく、少し変わっていた子どもだったのだと思います。
学生時代~20代前半●苦悩から、将来を考え始めた私
何となく生きていた高校時代、友人からの相談を受け、その内容の重さに苦悩していました。当時は、彼女に絵を描いてプレゼントしたり、何か作ってサプライズをして励ましていましたが、彼女の気持ちは晴れる事なく状況は悪化していくばかりでした。私は描くこと作ろことに自信を失いそうになりました。
若かった私はして解決の糸口を探して、父の書斎にあった仏教コミックスを読みあさり、将来、尼さんになって困っている人を助けたいと思うようになっていました。とはいえ、どうすれば尼さんになれるのかわからなかった女子高生は、とりあえず、何の目標や目的もないままデザイン系の専門学校へ行きモノづくりを続けました。ちょうどその頃、クリスチャンの友人から教会に誘われ、なぜか私もクリスチャンになります。
専門学校卒業後から20代前半は、祖母の介護と実家の会社の事務仕事、そして教会生活の繰り返しでした。正直、若者らしい遊びはしていません。とても大変でしたが、母と一緒にいた時間は、楽しい思い出として今も心に残っています。
20代半ば~後半●ちょっと違ったけど…一応夢をかなえた私
20代半ば、祖母の他界を機に、キリスト教の神学校で3年間の学びをする道が開かれました。ですが、ここだけの話、活字が苦手な私は、聖書の勉強が苦痛で仕方ありませんでした。 毎日の課題を忠実にこなす同期の神学生たち…「この人の頭の中、どうなってるんだろう」「一度脳みそを交換してほしい」と、ボーッと頭を見ていることが多かったです。
そんな時、LD(学習障害)を題材とした絵本に出合いました。主人公は、字を読むのが苦手、でも絵がとっても得意な女の子。作者ご自身がモデルです。「あぁ、ここに自分がいる」私は自分と主人公が重なりました。でも、「この子は絵を描くことを仕事にできたんだね」…その後20年以上、自分の中にある大切なものを見失ったまま彷徨い続けることになります。
何とか神学校を卒業し、伝道師三年目、岡山での出来事。オーバーワークからか、鬱になり、激しい腹痛とともに毎月気絶するという日々が続きました。検査を重ねても異常なし。結局、卵巣嚢腫破裂で緊急入院、緊急手術。その後、実家の東京に戻り、伝道師は辞めることになりました。
気絶するときはいつも一人、でもきっと大丈夫…ここまでは私がやらなきゃ…、この繰り返しが、後々体調不良を繰り返す原因になります。この頃は、描くだの作るだのやってる暇はありませんでした。あの絵本の主人公が頭の中をよぎったとしても…。
30代●両親の他界と、やっぱり無理してしまう私
実家で静養して1年、母の突然の死に直面します。前日まで普通に生活していたのに、その日の朝は起きてきませんでした。もともと心臓が悪かった母は、祖母の他界からちょうど10年後、「自分は介護されたくない」と望み通り天国へ逝ってしまいました。
残された家族、特に父や兄たちは取り乱していました。きっとそれが自然なのでしょう。でも私は感情を押し殺し、とても冷静でした。大変な事態の時にはいつもそうです。周りに感情を見せてはいけないと、勝手に(無意識に)自分を縛り付けていたのです。
そんな非日常の後は、淡々とした日常を続けなければなりません。私は、母の運ばれた病院で清掃の仕事をすることにしました。自分の中で清掃は3年と区切りをつけ、次は看護助手(介護)の仕事を約5年間しました。今思うと、突然いなくなった母への気持ちをこの期間にどうにか処理しようとしていたのかもしれません。この頃は、母に会いたくて、一人で泣いてしまうことも多かったです。
母の突然死の七年後、今度は父が他界。母がいなくなってからの父はボロボロでした。飲んだくれの父のために夜中に何度も起こされ、当時の私は心身共に限界に達していました。その後は、何といっても遺産相続のことが重くのしかかってきます。あんなに仲の良い兄弟だったのに…。今でも当時を振り返ると頭が重たくなる程です。
介護の仕事をしている時に片付けの資格を取った私は、資格を活かすために家事代行会社数件、商業施設、夜の空港の清掃やハウスクリーニングなど、掛け持ちをしながら様々なところで働きました。
40代●今までと違う扉をノックしてみた私
父の他界後四年が過ぎ、次は実家の片付けに本腰を入れなければなりませんでした。築45年大家族が暮らした家は、増改築を繰り返し、モノで溢れ返っていました。片付けの資格を持っている自分がやらなければ…となぜか背負ってしまうのです(無理がたたり軽度でしたが線維筋痛症という診断を受けしばらく引きこもります)。
その後も、体調を見ながら別の資格を取ろうと試みたり、起業セミナーに参加してみたりしました。結局踏み出せず、マッチングサイトでの片付けの仕事をしますがコロナ禍で中断。そこでまた介護系に戻り…と職を転々と変えていきました。そんなある日、利用者さんが亡くなり収入が減ってしまいます。
収入と引き換えに時間を得た私は、YouTubeなど動画をよく観るようになりました。そんな時、目に止まったのが「社長!」「うっす!」のやり取りで始まるショート動画です。視聴者さんからの質問にキレイな社長さんが回答する内容で、その答えがとても明瞭で素晴らしいんです。それにとってもキュートで可愛らしい。私はついチャンネル登録をしてしまいました。
そして、このチャンネルを裏で操っていたのが、青木創士さんというWebマーケッターの方でした。私は、考える時間がもったいないと思い
ほぼ直感で、青木さんのWebマーケティングスクールで学ぶことを決断しました。
47歳現在●クリエイティブな私
Webマーケティングの学びというと、pcを使ってサイトを作って集客するための勉強、と思いがちですが、はじめは自分と向き合う事から始まりました。過去の自分を思い出すと同時に、どこか懐かしい感覚が蘇ってきました。
また、ある時、面談で「クリエイティブな人」と言われた事がありました。クリエイティブな人の特徴を検索してみると、ほとんど当てはまっていて、それはむしろ自分を否定していた要因でもありました。
何か発想が思い浮かぶと頭がいっぱいになり、夢中になると没頭して他のことが手につかなくなります。そのくせ熱し易く冷めやすい。人とかぶるのが嫌い、その上細かいことに敏感で、一見弱そうで子供っぽく見られるけど実は頑固で、正義感が無駄に強くて、世界平和を考えてたり意味不明です。こんな自分が厄介で大嫌いでした。本当に面倒くさいんです。
でも子どもの頃は、純粋に「モノづくり=自己表現=生きること」に直結できていたのかも知れません。
私は今まで自分を押し殺して生きてきました。自信を失い本来の自分を見失っていました。
30年前の17歳の私に伝えたいです。彼女が元気にならなくても状況がかわらなくても、あなたのせいではないのだと。
20年前の27歳の私に伝えたいです。あなたはクリエイティブな人間だから、自分を嫌いにならなくて良い、好きな事に没頭して良いのだと。
10年前の37歳の私に伝えたいです。あなたは片付けの勉強を初めますが、苦しみます。クリエイティブな自分自身さえも手放そうとするからです。
47歳現在、Webマーケティングを学び始めて気が付きました。クリエイティブな自分をもっと有効活用すべきだということに。
大好きだったモノづくりを通して友だちを励まし、助けたかった想い。それは、インターネット上にWebサイトや動画を作りupする事で可能になることに気がつきました。Webマーケティングの知識とともに加速して広がっていきます。
世の中には悩みを抱えている人がたくさんいて、それを解決する手段を知っている人もいます。私に解決できなくても、私が作るモノを通して届けられるのではないか、そう思えるようになりました。
その歩みは微々たるモノですが、まだ会ったことのない方の人生がより良いものになることを願いつつ、目の前のことに没頭して行きたいと思います。